緩やかな眠りの向こうで世界の動く音がする。
微かなキッチンの物音に耳を澄ませば
食器の触れあう音の合間に些か不安定な歌声が聞こえてきて
僕の頬に笑みを浮かばせる。
漸く開いた目の端で時計の針を捕らえれば
朝寝坊が得意な君の休日にしては、少しばかり早起きのようだ。
体を起こしてカーテンを開けると
青さを増しつつある空が広がっている。
寝室を出ればコーヒーの香りが漂い始めていて。
きっと朝食のメニューは
君の得意なスクランブルエッグとカリカリのベーコン。
それからグリーンサラダか或いはキャベツのスープ。
「おはよう」
レードルを手にした君はやっぱりご機嫌で。
窓から差し込む日差しがやわらかくキッチンを包み
君の好きな淡いグリーンのカーテンが僅かに風を受けている。
コーヒーメイカーはそろそろ仕事を終える様子
銀色のトースターが小さく音を立てている。
今まで幾つも過ごして来て、
これからも間違いなく重ねて行くであろう当たり前の朝の光景が
なんだかとても愛おしいものに思えて
僕はゆっくりと目を閉じた。
朝食を終えて、すっきりとシャワーを浴びたなら
少し遠出をしてみようか。
久しぶりに車を出して、海沿いを走ってみるのもいいかもしれない。
陽光に照らされた穏やかな海のきらめきに
君が笑顔を見せてくれるなら、いい。
例えば眩しいほどに空が青かったり
思わず目を閉じるほどに風が強かったり
ふとそんな瞬間に僕は、
君を唐突に想うことがある。
なんとなく、だけれど。
昨日、新しい靴を買った。
独り暮らしももう随分と長くなったこの部屋の
窓を全開にして乾いた風を通してみる。
本棚を、整理する。
少しだけ、慣れ親しんだ家具の配置を替えてみる。
まあ、もともとそうたいして多くは無いのだけれど。
昨日とは同じようできっと違う今日
少しだけ丁寧に、久しぶりのネルドリップの珈琲と
角のパン屋のクロワッサン。
オーブンのタイマーを2分にセットしてから
整え直した部屋の隅のラックから掘り出してきたCDをかける。
懐かしい音楽が流れ出せば
記憶の中のいつかの時間がひどく鮮やかによみがえる。
薄曇りの夜明け過ぎ
ベッドの脇の窓から見上げた風の色
開いたノートと万年筆のインクの匂い・・・
記憶をちょっと遡ってみても
その一場面になにか大きな出来事があったわけでも、
こころを捕らわれることがあったわけでもなかった、と思う。
きっとひどくありきたりな過去のひとかけら。
そんないくつもを積み重ねて
僕の今はあるのかも知れない。
何とはなしに新しい、今日
何が変わるわけでもない、特別なこともきっと何もない
でもきっと。
新しい靴を履いて
君に会いに行こう。
公園近くの並木道
散歩に行こう、と
いつもの気まぐれで突然に言い出した
珍しく早起きの君に連れられて
まだ熱の籠もらない通りを歩く。
どうやら天気予報通り、本日も快晴。
濃さを増した街路樹の緑が僕たちの頭上の空を覆い隠しているけれど
きっともう少ししたら、青は力強さを増してくる頃。
「あ」
小さな声に視線を戻せば
さっきまで隣を歩いていたはずの君が
軽い足取りで僕の少し前を行く。
また、なにか気になるものを見つけたのだろう。
それはきっと
開き始めた淡い色の花だったり、
そう、例えば何処かの子供が忘れていった麦わら帽子だったり。
君と一緒に過ごすようになって
僕の世界は随分と広がったように思う。
今まで目にしていながら見てはいなかったものが
多いということに気付かされる。
街路樹の葉陰の下、君の白い半袖が眩しい。
「ねぇ」
そう君に呼びかけて、続く言葉はたち消える。
僕は何を言おうとしたのか
きっと何か特別言いたいことがあったわけでは無くて
続くはずだった言葉は、すぐに消えてしまっのだけれど。
僕の声に君が振り向いたその時に
風で梢がはらりと揺れて
ひかりが空から落ちてきた。
ちょうど君の目の前に。
少しだけ驚いた様子の君が、眩しそうに目を細めたあと
僕にふわりと、微笑んだ。
時間にしたら、ほんの僅か
いつもと変わらない君の穏やかな笑顔。
でもその瞬間、何かが僕を通り抜けて
そして改めて思ったんだ。
君が大切だと。
この微笑みを決して無くさせたりはしないと。
君が隣で笑ってくれる、そんな僕でありたいと。
「なんでもないよ」
唇の動きだけでそう告げれば
小首を傾げて訝しげな顔をする。
そんな君の向こうで
今、蝉が鳴き始めた。
流れる時間のひとつひとつに
きっと、無駄なことなんて何処にもなくて
当たり前の普通の毎日ですら、意味の無いものではない。
どうでもいいようなことが気になって
些細な事が嬉しくて
言葉の欠片に傷ついて
ふとした何かに微笑んでいる。
繰り返すだけの毎日は、それでも同じ瞬間は二度とは無いから
同じ毎日を続けていく、それはとてもすごいことなのだと
最近ようやく分かってきた。
何かを目指して、それに向かって進んで行くことは
勿論素晴らしいことだ。
でも、変わらない毎日を、同じように平穏に過ごしていく
それがどれほどに尊いことなのか。
変わらない日常を、自分に。
穏やかな当たり前の日常を、誰かのために。
そんな時間の中で浮かぶ笑顔の大切さを
きっと誰もが本当は知っている。
飾らない笑顔を君に。
同じ景色を見られる距離で
並んで歩いていけたなら、いい。
こころと時を重ねて歩く。
ゆっくりと、でも確実に。