いつでも傍に居たい、なんて実は思ったりもするけれど、
そうできないのは当たり前。
君にも僕にもそれぞれの時間があって、
僕は僕として、やらなくてはならないこともちゃんとあるし
周りを見ることが出来ないほどに青くはない。
衝動のままに動ける時代はもう随分と前に過ぎ去っている。
必要最小限の無味乾燥な壁の時計は、夕刻までもまだ少し。
そこそこに年季の入ったパソコンのディスプレイで点滅するカーソルが僕を急かす。
溜息を飲み込みながらまた一枚書類を捲り、キーを叩く。
デスクの端に置いたマグカップの冷め始めた珈琲の色に
君は今頃はどうしているだろうか、と不意に思い
手を止めて、はめ殺しの窓ガラスの向こうの空へ束の間視線を投げるけれど。
結局、そんな自分を微かに苦く笑いながら
大人の振りで画面に戻る。
耳に馴染んだ社内の雑多な音
内線電話の着信を知らせる赤いランプ
キャスターの軋む椅子を少しずらしてファイルを手に取る。
取り立ててどうと言うこともない普通の一日
眉を顰めるようなトラブルもなく、驚くような話題もない。
ごく当たり前の僕の今日。
突然何かを深く考え始めたわけでもないし、
勿論壁に突き当たった、なんてこともない。
誰かに何かを言われた、そんなこともない。
でも、今
僕は
どうしようもなく君の笑顔が恋しいのです。
手を伸ばしてマグカップをコトリと置いた。
何となく、気分で淹れたカフェオレは
街路樹の色付き始めたこの季節にすんなりと馴染んで心地いい。
ほう、と小さく息を吐く。
背中合わせに微かな君の体温。
フローリングに敷いた淡い色のラグの上
僕らはそれぞれに気に入りの本を手にしていて。
栞を挟んで一旦閉じた僕のそれは、翻訳物の古いミステリー
君は、何を読んでいるのかな。
静かな部屋の時間はゆっくりと流れているよう。
僕たちはここにこうしているだけで
それ以上の特別なことは何もしていない。
でも、もしも今ここに、
この背中から微かに伝わるぬくもりが無かったならば
こんなに穏やかな気分で寛いでいられるのだろうかと
ちょっと考えて、首を振った。
・・・傍にあって当然のもの
無くなってしまうことなと考えられもしないもの・・・。
「なんだか空気みたいだね」
天上にほかりと視線を投げて
背中越し、君に呟いた。
細めに開けた窓からの乾いた風が、部屋を通っていく。
もう少し秋が進んだら、ドライブに出掛けるのもいいかもしれない。
と、
少しだけ遅れて僕の声を君が拾ったようで
「それって少しひどいんじゃない?」
何故か拗ねたような声がする。
顔は本に向いたままで、でもきっと小さく唇が尖っている感じ。
そんなことを言われて少し驚く。
「どうして?」
「だって、あってもなくても同じってことでしょう?」
・・・ああ、なるほど。
僕の失言になるんだろうか。
そんなつもりは無いんだけどね。
「違うよ。
君がいなかったら僕は、
息も出来ないんじゃないかってこと。」
言葉足らずを補うようにそう言い直したら
君は驚いたように僕を見た。
それから、どこか呆れ混じりに小さく息を吐いて
「・・・もう」
ふわりと笑った。
蝉の鳴き続けている向こうで
オレンジ色のコスモスが揺れている。
遠目の森の深緑も
一頃よりはやわらかな葉色を見せ始めた。
長袖のシャツを出せば
世界は少しずつ移り変わろうとしている。
鮮やかに染まりつつある世界に
君は何を思っている?
こうして隣で幾つもの季節を過ごして
時間をそっと重ねて来た。
劇的な展開も、驚くような大事件も
全然起こりはしなかったけど
ゆっくり過ぎる毎日に
気付けば必ず隣に君がいることが
僕にとっては何よりも大きなことなんだ。
ふと見上げれば飛行機雲が長く空に白を描く。
広がる光をはらんだ青が、
優しい実りの季節の到来を僕たちに確かに告げている。
このままこんな風に
何事もないままで君と二人、
ただのんびりと歩いていきたいなんて
僕はいま、静かに願っているんだ。
ペーパードリップの湯気の向こうで
君がゆっくり微笑んだ。
“大丈夫”
声には出さずに、そう言ってくれている。
ことりとテーブルに置かれたマグカップには
やわらかなクローバーのグリーン。
忙しいということを
言い訳にしていいなんて思ってはいないけれど
上手く自分が紡げなくて空回り気味の僕が居る。
自分なりに出来ることをしているつもりでも
思い通りにいかないことは予想以上に多い。
どうしてこんなに何も出来ないのだろうと、
正直ひどく落ち込んだりもして。
社会に出たばかりの新人でもないのに
あまりにどうにもならなくて。
誰のせいでも無い、それは自分の力不足のせいなのだと
言われなくてもわかっているのに。
そして、そもそもそんなことで俯きがちになることが
どうしたって情けなくて。
そう、だからそんなことは口には出せない。
堂々巡りとジレンマが
溜息の形で零れてしまう。
・・・。
元気を出して、頑張って
こんな時、君は僕にそうした言葉を掛けることは無い。
そう、それはきっと
きっと君にだって時折あること、なんだろう。
お互い、暢気なだけの毎日ではないから。
ぽん、とやわらかな手のひらが
さり気なく僕の頭に乗せられて
すぐにさらりと通り過ぎていった。
マグカップを手にして
「ありがとう」
珈琲を口にする。
君が淹れてくれたそれは
砂糖もミルクも入ってはいないはずなのに
いつでもほんの少しだけ、甘い。